黒澤明監督の映画「生きる」をミュージカル化した本作。
3度目の上演ですが、今回初めて観劇することが出来ました。
大千秋楽ということもあり、本編の熱量も凄かったのですが、それ以外にも心打たれたことがありましたので、書き留めておきます。
そして、観劇再開して半年ほどですが、やっと上原理生さんを見ることが出来て良かったです。
彼の歌声、やはり好きだなあ。
それでは、以下感想になります!どうぞ!
キャスト
渡辺勘治 | 市村正親/鹿賀丈史 | 定年間近の市役所市民課課長。胃がんを宣告される |
渡辺光男 | 村井良大(齋藤信吾) | 勘治の息子。父親と妻・一枝と一緒に暮らす |
小説家 | 平方元基/上原理生 | 売れない小説家。酒場で偶然勘治と出会う |
小田切とよ | 高野菜々 | 勘治の元同僚。公園作りを手伝う |
渡辺一枝 | 美咲凜音 | 光男の妻。新しい時代への期待を抱く |
組長 | 福井晶一 | 夜の街を仕切っている。いわゆるヤのつく自由業 |
助役 | 鶴見辰吾 | 勘治の勤める市役所の助役。裏との繋がりも強い |
死に向かって生きる
地球上にいる何十億人という人間にはたった一つだけ共通点があります。
それは、最後は必ず死んでいくということ。
「この世に一人として同じ人はいない」という言葉はよく聞くかと思いますが、遅かれ早かれ死んでいくというのは皆平等です。
この終着点を認識したとき、人は本当の意味で「生」を実感するのだと思います。
渡辺勘治は、自分が胃がんになっていて、もう先が長くないと知ってから人生で何かを残したいと強く切望します。
それまで覇気がなかった渡辺の目に光が宿った瞬間。
あのとき、彼は今までの人生のどの場面より生きていたのだと思いました。
死んだように生きていた過去と決別して、もう一度「渡辺勘治」として生まれ変わった一幕ラスト。
人生に縛られている自分を鎖から解き放ったあの場面が、本当に輝いて見えたんだよなあ。
というか、それまでが自分の意見をはっきりしゃべらないし、変わりたいと思っているのにとよが何か提案しても「でも……」と否定から入るような彼が、真っ直ぐ前を見据えている姿は思わず「同じ人ですか?」って思ってしまうほど。
あの一瞬で違和感がないように纏う雰囲気を変えられる市村さん、月並みな言葉ですが本当にすごいなあ。
2幕から怒濤の行動力の見せ場が続くのだけど、この姿って生まれ変わったと言うよりも、渡辺が元々持ち合わせていた気質を取り戻した、という感じがしたんですよね。
戦争や妻の死、それ以外にもたくさんのことを経験して見失っていた自分自身の一部なのかな、って。
鹿賀さんの渡辺を見ていないので比較は出来ませんが、市村さんの渡辺はお役所仕事よりも営業みたいな泥臭いお仕事が似合う。
そして、誰かが喜んでくれたことに幸せを感じて、その思い出や積み重ねを大事にする人というイメージ。
公園という場所に過去の自分と息子の姿を重ねて、「今から人生を始めても、遅くないのかもしれない」と希望に変えられる、それが本来の彼の姿だったのだと思いました。
余談ですが、皆さんは宿題やお仕事を締め切りギリギリまで手をつけないタイプですか?それとも計画的に進めていくタイプですか?
締め切りのことを英語でデッドラインと言うの、凄いなあと観劇後にじわじわ思い始めていて。
長すぎて気づきにくいのですが、死というのはそれぞれの人生の締め切りなんですよね。
たまにはのんびりすることも大切だけど、そうしてばかりいると目の前に迫ってきてしまう。
「死ぬ気でやってみろ!」という言葉があるように、必死に生きている人を見て心を打たれるのも、そんな人を眩しく感じるのも、多分理屈で言うとそういうことなのかな、と考えさせられました。
人の気持ちは伝染する
2幕が始まってから、渡辺は今まで役所で判子を押す仕事しかしていなかったのが嘘のように、公園作りに熱を入れて行くのですが……。
その執念がとんでもないというか。
裏世界の人たちにも真正面から訴えかけていて、当然殴られたりもするわけで。
「死ぬこと以外はかすり傷」を地で行っているのがとても面白かった。
人は周りにいる人に影響され、感化されていくものだと思っていて。その連鎖で集団ができあがる。
今回で言うと、渡辺を突き動かしたのはとよとの出会いであり、渡辺の熱意が小説家に伝播していく。
とよはとにかく明るくて行動力の塊のような、今を楽しく生きる女性だった。
つまらないと感じても、それをどうやれば自分が面白くなるか考えられるポジティブさ。出来ないことなんてないと信じる純粋さ。
渡辺が言った「君といると、胸があったかくなる」という台詞は、本当になんの変な意味も無く、何事も楽しんで生きる君がただ眩しいということ。
自分もとよみたいに生きてみたいと思った渡辺はそれを行動に移す。
これは、渡辺がとよに影響されたが故の選択だったように思いました。
そんなとよに対して小説家は色々と燻っている人間だった。
表向きは豪胆で朗らか、今を楽しんで生きているようにも見えるけれど、実際は自分の意に反して書きたくもない三文小説を書いてお金を稼ぐ日々。
夜の街にも出入りはしているし、そこでの付き合いや繋がりもあるけれど、絡んでくる人を次から次へと躱していく彼を見る限り、本心では楽しいとは思っていなさそう。
小説家が、渡辺に協力している自分に対して「なんで俺も一緒に熱くなってるんだろう」と言うのが印象的で。
渡辺が自分のやりたいことを見つけて、誰に何を言われても諦めずに立ち向かっていく姿を見て無意識のうちに引き込まれているように見えたんですよね。
それはきっと小説家にとって、自分がなりたい姿でもあっただろうから。
最初酒場で渡辺と出会ったとき「あんたは俺と出会えて幸運だ」と小説家は言うけれど、きっと小説家も渡辺と出会えて幸運だった。
これから、小説家がどんな人生を歩んで行くかは描かれていませんが、きっと自らの中で燻っている熱いものを取り戻すことができたのではないかな。
伝統や文化が受け継がれていくように、その時代に生きてきた人の想いも受け継がれていく。
全くの他人なのに、そんなことを思わせてくれた渡辺、とよ、小説家の不思議な関係性でした。
親子の物語
あのですね、父親の勘治と息子の光男、この二人の関係には始終もどかしさを感じていました。
元々私の中で、この時代の男性、特に父親はあまり言葉で語らずに背中で語るみたいなイメージを勝手に持っていて。
それに加えて勘治はあまり自分の意見を主張しないタイプじゃないですか。
逆に光男はこれからの新しい時代を生きていく若者として、かなり自分の意見を言うタイプ。
恐らく若さ故もあるのだろうけど、まだまだ視野が狭くて何かが起こったときに感情的になりやすい。
ここまで書いているだけでこれはすれ違っちゃうわ……と思わせてくれる人物像なんだよな、この二人。
でも結局は親子ですから。心のどこかではお互いを想っているんですよね。
時には意地を張って相手への意見をきちんと伝えなかったり。
時には傷つくような酷い言葉を投げてしまったり。
そんなことがありながらも、勘治の公園作りの原動力は光男の笑顔だったわけで。
そして光男は光男で、身内なのに他人のような、追いつきたくても追いつけない父親の存在に少し寂しさを感じていて。
この物語がいいな、と思ったのは二人は最終的に和解できずに終わるところ。
そりゃあ、勘治が生きている間に彼らが仲直りして、光男の妻である一枝も巻き込んで一緒に公園を作って「めでたしめでたし」で終わればハッピーエンドなのだろうけれど。
そんな良いことばかり起こるわけがないのが現実なんですよね。
なくしてからその存在の尊さに気づくように、光男はこれから勘治の本当の気持ちを最後まで知ろうとしなかったことを一生後悔しながら生きていけばいい。
きっとその後悔は良い意味で、愛すべき妻とこれから生れてくる子供、3人で一緒に作り上げる家庭への向き合い方に影響があると思うから。
勘治が最後、どのような思いで過ごしていたか。
その気持ちに向き合いながら、新しい時代を生きて欲しいと思いました。
ラスト、ブランコに置かれた勘治の帽子に父親の姿を求めるように縋りつこうとするところで幕がおりるあの演出。
あれが本当に温かく感じられて。
「命を熱く燃やして生きることはただそれだけで美しい」
とあったのですが、それだけじゃなくて、そうやって生き抜いたあとに残るものさえも美しいのだなと、そう思わせてくれた場面でした。
番外編
さて。
今回の舞台でもう1つ強く思ったことがあります。
それは、人間の底力。人って、本当に強い生き物だなということ。
実は今回の大千秋楽、光男役の村井良大さんが体調を崩されていたそうです。
それで、当日午前7時30分頃にスイングの齋藤信吾さんに連絡が行き、彼はすぐに東京から大阪行きの飛行機へ飛び乗り開演50分前に劇場入りしたそう。
もちろん、移動中に台本をもう一度読み込みながら。
幕が開く前、ぼそっと一言「緊張する……」と仰っていたそうですが、微塵もそんなことは感じさせず、堂々と演じていらっしゃいました。
この大千秋楽の日に、「大丈夫、まだいける」と過信せずに、早めの判断で連絡してくださった村井さん。
連絡を受け、すぐに駆けつけてくれた齋藤さん。
慌てて開始しようとせず、初心に戻って動線もろもろを確認しようと動いてくれたキャスト、スタッフの皆さん。
みんなで、この舞台をいいものにしようとひとつになって作り上げていく姿が、なによりも美しくて、これが生きるということなんだな、と強く感じました。
なんだか、すごく良いものを見せていただいた。
ただ、アナウンスはもう少し細やかにしてほしかったな、というのはあります笑
そして、現在西遊記の稽古をしている村井さん、体調よくなられたようで、本当に良かったです。
おわりに
実は原作の映画を見ていないのですが、映画でも小説家がストーリーテラーを兼ねているのですか?
彼がその役割を担うことで小説家の作品の中身を覗いているようにも錯覚出来る、こういう演出が私は割と好きです。
勘治の葬儀中、光男を公園へと連れ出して一悶着あったあとの小説家の口から零れ落ちた「手のかかる親子だなあ」の台詞の中に、一瞬だけストーリーテラーとしての彼が混じって見えて、なんだかとても不思議な感覚になったのを覚えています。
今回ぎりぎりで観劇を決めたので、もし同じキャストで再演されることがあれば、次は鹿賀渡辺、平方小説家も見てみたいなと思っています。
それでは!
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