【観劇記録】ミュージカル モーツァルト【感想】

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感想

こんにちは、macaronです。

2024年10月19日、三銃士の観劇後はSkyシアターから梅田芸術劇場へ移動し、モーツァルトを観劇しました。

モーツァルトは私が観劇に通うようになってから何回か再演されていたのですが、どれもタイミングが合わず、今回見るのが実は初めてなのです。

古川くんが最後かもしれないので絶対行きたいと思っていたのですが、良い感じにスケジュールを組めて本当によかった。

次からネタバレありの感想になります。

それでは、どうぞ!

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キャスト

ヴォルフガング・モーツァルト古川雄大/京本大我
コンスタンツェ真彩希帆
ナンネール大塚千弘
ヴァルトシュテッテン男爵夫人涼風真世/香寿たつき
セシリア・ウェーバー未来優希
エマヌエル・シカネーダー遠山裕介
アントン・メヌマー松井工
アルコ伯爵中西勝之
コロレド大司教山口祐一郎
レオポルト市村正親

感想

ただ愛されたかった子供のような……

この演目で恐らく一番有名で、コンサートなどでも度々聞いてきた「僕こそ音楽」。

これを初めて劇中で聞いたときの衝撃はすごかった。

今まで「僕こそミュージック」がこの歌の主題だと思っていたのだけれど(タイトルにもなっているし)、どちらかというと「このままの僕を愛して欲しい」にかなり焦点が当たっている曲だなあ、と感じたかな。

音楽への限りない才能と、それを通してしか愛されない自分。とても寂しさを感じる曲だな、と。

どのヴォルフもそうなのか、古川ヴォルフがそうなのかは分からないけれど。

ヴォルフが一番認めてもらいたかった人は、きっと父親なのだと思う。

台詞にもあったように父を、そして家族を愛していた。

父ももちろん息子を愛していた。ただしそれは意識的か無意識にかは分かりませんが、「音楽の才能を与えられた息子」として。

レオポルト自身がなりたくてもなれなかった存在、自分の息子ならそれが出来る。

そしてその可能性を秘めた息子はレオポルトが「作りだした」ものである、と。

ヴォルフも父親からの愛はそういうものだと感じ取っているから、愛しているのに反発してしまう。

「詩は書けない、絵も描けない、芝居も出来ない」「馬鹿騒ぎが大好き」「礼儀知らず」でも「音楽は出来る」。

できること、できないこと、好きなこと。

すべてをひっくるめて自分という存在を愛して欲しいのに、現実はそうではない。

いつかそうなって欲しいという願いがこめられているような、でもそういう日は来ないかもしれないという諦めも込められているような。

そんな寂しさをとても感じるヴォルフでした。

こういう感じ方をしたからだと思うのですが、今まであまり気にしてこなかった「僕が誰かさえ知らない」がすごく心に残ったな。

「僕こそ音楽」とタイトルのついた曲で、自分が誰かさえ分からないという歌詞が出てくるこの苦しさ。

子供の頃から音楽の天才・神が与えた才能と言われ続けたが故に、その言葉に縛られ続けて本当の自分さえも分からなくなる。

「芸術家は自由でなくちゃ!」という台詞があったけれど、いくら自由になったとしても精神的な部分で「天才」という言葉に縛られ続ける。

誰もが羨むような才能を持ちながら、誰も理解してくれない孤独や寂しさと戦い続けていたような、そんな感覚になっていました。

子供の姿のままのアマデと、大人になったヴォルフガング

少し前に見た、ミュージカル「ファンレター」。

その感想を色々拝見していたときに、たまに目にしたのが「少しモーツァルトみがある」というもの。

私自身はそのときまだモーツァルトを見たことがなかったのですが、今回観劇して「たしかに」と思う部分もかなりありました。

ただ、違うなと思う点ももちろんあって。

ファンレターのヒカル(セフンの深層心理的な存在)は場面によって姿や服装が変化していたのに対して、アマデはずっと姿形が変化しないまま幕が下りるんですよね。

そしてもう一つ。

ヒカルを止めたのはセフンだけど、ヴォルフガングの息を止めたのは視覚的にはアマデという形になっていたのが、かなり違うなと思いました。

モーツァルトでは、アマデの方がずっと主導権を握っていたのかな。

主導権というか……ヴォルフガングの軸となる部分、神から与えられた音楽の才能がアマデみたいな捉え方をしているのですが。

姿形が変わらないのは、あれが完成形でずっと衰えていないということなのかな、と。

大人になるまでの過程で色んな事を経験して、音楽も好きだけどギャンブルや恋愛、そして友人と飲み明かすことにも興味を持った。

でも、アマデは劇中一貫して作曲を続けている。

ヴォルフガングが人間の欲求に従って行動しているとき(皆との馬鹿騒ぎや、堕落した生活。コンスタンツェとの恋愛など)、アマデは無視して作曲するか、あまりに酷いときはステージ上からいなくなる。

感情を表に出すのは音楽関連で何か動きがあったときだけ。(ウィーンへの誘いの時とか)

周りの人間が惚れ込んでいるのは、おそらくアマデのなんですよね。

父・レオポルトが「作った」と言っている部分も、コロレド大司教が嫉妬している才能も。

唯一そこ以外、ヴォルフガングを見ていたのがコンスタンツェだったのかな~と思ったのですが、彼自身にとってもアマデは軸となっている存在だから、そこから逃れられなくて八方塞がりになっていってたように見えてしまいました。

大きなナンバーとして歌われているように、「自分の影から逃れて生きることができるのか」というのがテーマだと思っているのですが、もがき続けて辿り着いた最後の死のシーンはどちらとも捉えられるのが凄い。

ヴォルフガングが死を選ぶことで、彼を支配していたアマデから解放されたとも見える。

しかもアマデに自分を「刺させていた」から、ここでの主導権は完全にヴォルフガングのもの。

でも逆を言えば、アマデの影から逃れるために、ヴォルフガングは死を選ぶ他無かった。

生きて曲を書き続けながらアマデから逃れる(払拭?克服?)、それが無理だという結論に至った時点で自分に打ち勝てなかったのだと。

そう捉えることもできる。

結論がだせなくてぐるぐる考え込んでいたのですが、役者の演じ方やその回の流れの積み重ね方、私自身のコンディションで変わってきそうな場面だよなあ。

私はこれが初めての観劇でしたし、今回も1枚しかチケットを持っていないので、これ以上吟味のしようがないのですが、次回またここの解釈に挑戦したいですね。

……古川ヴォルフ、今回でラストな気がしないでもないですが、どうなんでしょうか。

たいへん良かったので、また見たいと思っている。

おわりに

モーツァルト、本当にやっと見られてよかったです。感無量。

散々なことを言ってきたけど、やはりアマデは可愛いんですよね。特に最初の方のヴォルフガングに箱を取られてぴょんぴょんしているのがとても好き。

あと個人的に一番衝撃だったのはヴァルトシュテッテン男爵夫人。

「星から降る金」、曲だけ聴いてヴォルフガングを後押しするいい人っていうイメージを抱いてたんだけど、全編を通してみるとアレ???って思うところが多かったな。

いつの世も変わらないと思うけど、ただ素直に生きていくなんてことは難しいのだな……と感じることが多かった。

特にウィーンに移ってからは。

……なんだか後書きまで感想チックになってしまいました笑

また次回、3年後(くらいかなと勝手に思っているのですが)楽しみにしています!

それでは!

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