【読書】小説「陰陽師 飛天ノ巻、付喪神ノ巻」感想

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感想

久しぶりの読書感想です。

今回はドラマや漫画、舞台などでも取り上げられている陰陽師の2巻「飛天ノ巻」3巻「付喪神ノ巻」を紹介します。

短編集ですので、特にお気に入りの作品のみ感想をあげております。

読み始めてから知ったのですが、シリーズがかなりありますね……!

とても面白いので早く最新刊までたどり着きたいです。

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主な登場人物

安倍晴明平安時代に活躍した陰陽師。
源博雅平安時代の公卿、雅楽家。

陰陽師-飛天ノ巻-感想

陀羅尼仙

飛天ノ巻で一番好きなお話。

不老長寿の仙人になった者がいた。

その仙人と出会い、自らも仙人になろうとしたが、結局は人にしかなれないと気づいた者がいた。

後者が気づいたことって、矛盾しているようだけどこの世の中の真理を表していると思っています。

人の世の中は常に移り変わっていくものです。

どれだけ栄華を誇った歴史人もいつかは衰退していく。

功績を残したスポーツマンも年を重ねれば体が思うように動かなくなる。

その移り変わりの中でただ一つ変えられないことが私たちは「人である」ということ。

私たちは短い人生の中で何者かになろうとするし、その熱量は美しくて素晴らしいものだけど根底にある「人」ということは変えられないんだよな。

人は人にしかなれないなんて、すごく当たり前のことなんですけどこの場面が本当に好きです。

もしかして、先に仙人の道に入った陽勝僧都もそれに気づいたのかな……?彼はなぜか蝶になっていたみたいだけど、最期はやはり散っていったものな。

もう一つ素敵だな、と思ったところが浄観(陽勝僧都に感化されて仙の道に入った人)が心を寄せていた白拍子と出会うところ。

白拍子を連れてきたのは晴明の式神「青虫」。晴明の庭に最後まで咲き残っていたリンドウの花。

浄観の魂を運んできたのは死に後れた蝶。文脈から、おそらく陽勝だと思われる。

この「最後まで残っていた者たち」が二人を引き合わせたのもすごくよいし、式神の名前が「青虫」でもう片方が「蝶」というのも、よい。

絵に魂が宿ったある意味生まれたての白拍子を「青虫」が、すでに亡くなっていて魂となった浄観を「死に後れた蝶」が、というのが生命の一生を表しているようで素敵でした。

鬼小町

人が持つ感情はいろいろあれど、恋愛感情ほどややこしいものはないよなあというお話でした。

何回か読んで感じたのは先ほどの「陀羅尼仙」とある意味対になっているな、と言うことです。

陀羅尼仙はどちらかというと「人は人にしかなれない。それは変えることができない」という面が強かったですが、こちらの鬼小町は「人は変わっていくもの。若く美しい者も次第に年を経て美しさは失われていく」という面が強いですね。

「人類」という括りで見るか、「個としての人」という括りで見るかの違いですかね。

「百夜通いの伝説」はこのお話で初めて知ったのですが、なんとも哀しい出来事ですね……。

小野小町にずっと思いを寄せていた深草の少将はとても無念だったと思うのですが、いろいろ言いつつも小町も少将に最後惹かれていたのではないかと思います。

少将は達成目前に命を落としてしまったことで愛が執着になり、小町は100日目に少将が訪れなかったこと、そして彼が自分を祟り殺したことで裏切られた憎しみに変わる。

心の底では相手を「好き」と思う気持ちがあるのに、その上に何重もの歪んだ感情が覆い被さって最早「愛」が見れなくなっている。

小町の少将に対しての「離れてほしい」という思いは怒りに溢れているように見えて「抱きしめてほしい」の裏返しのようにも感じてしまう。

同じ体に入ってしまっていてはお互いに温もりを感じることは不可能だから。

反対に少将は小町に嫌われていると思っているから、取り憑いた形でも一緒にいられるのが楽しい。だから多分これからも小町から離れることはない。

人の思いが複雑に絡み合って狂ってしまったものは、いくら晴明でもどうしようもなくて、そこもまた結末の哀しさを増幅させています。

源博雅堀川橋にて妖しの女と出逢うこと

晴明と博雅が蛟精の白蛇の出産に立ち会うお話。

そして源博雅への愛が大爆発しているお話です。

博雅は宮中に住む割と身分も高い人だけれど、それを全然気にしない。

他の人が囁いている噂話なども会話に入らない(聞いてはいる)が、呼ばれれば答える。

義理堅く、他人に裏などないと思える純粋な心の持ち主。

そして当人も裏表ない性格で、美しい、哀しいを素直に言える人。

それは……晴明が博雅のことを度々「よい漢」と称するのも理解できるくらいにいい漢なのです。

それから。夢枕獏先生が描写する博雅の笛の演奏場面が私は大好きなのです。

笛を吹いている彼や周りの表情、風景が鮮明に感じられる。

それに、笛の音が空気を震わせて本の外側にいる私たちにまで届くような感じさえします。

特に博雅の笛に合わせて、晴明の式神が舞っている様はもう絶品です。

なんだか博雅のことしか言っておりませんが、本編も博雅のことしか言っておりませんのでご容赦ください。笑

少し本編の他の部分について触れておくと、まず一つ目に、堀川橋の妖しの女に3番目に会いに行った梅津春信がとても好きだなと。

みんなが恐れる妖にも恐れずに一人で会いに行き、どんどん重くなっていく石を負けずに持ち続ける……凄く男気があってかっこいいなと思いました。

本当にあの一瞬の登場でしたが、ものすごく心に残ったキャラクターです。

そしてもう一つ。妖しの女に連れられて晴明の結界の中へ入り込んだ博雅が元の場所に戻る方法を、ポケモンの隠しダンジョンへの行き方みたいだな、と思ってしまってごめんなさい!

第一巻にあった違う世に迷い込んでしまったときの抜け出し方みたいなやつだとは分かっているんですが、どうしても世代的にポケモンを思い出してしまいます。

陰陽師-付喪神ノ巻-感想

鉄輪

冒頭を読んで既視感があるなとは思ったのですが、この「鉄輪」の長編版が「生成り姫」なのですね。

順番で行くと付喪神ノ巻の次は鳳凰ノ巻なのですが、一つ飛ばして生成り姫を再読して違いを探してみようと思います。

さて、「鬼とはなにか」ということを考えさせられるのがこのお話。

よく昔話では主人公が鬼退治に出かけますよね。人間離れした外見や力を持つ悪い鬼。

物語では、鬼は「鬼」という種類に分けられますが、実はあれは人間が生み出したものではないか?そもそも元は人間なのではないか?と思わされるお話でした。

そういえば、一つ前の「源博雅堀川橋にて妖しの女と出逢うこと」でもアテルイと平将門という人間が鬼として紹介されていましたしね。

晴明と博雅の会話にもあるように、鬼は人の心の中に棲むもの。人はその在り様によって善にも悪にもなる。

悪が理性をなくしたもの、それが鬼となるのでしょうね。

自分のせいで徳子姫を鬼にしてしまったと落ち込む博雅を慰める晴明の台詞でとても気に入っているものがあります。

『鬼が人の心に棲むからこそ、人は歌を詠み、琵琶も弾き、笛も吹く。鬼がいなくなったら、およそ人の世は味けないものになってしまうだろうな。』

不安、迷い、嫉妬、恐怖……。負の感情があるからこそ、それに負けないように人は美しいものを知り、見て、聴こうとする。

そうして勇気や希望をもらい「楽しい」「嬉しい」という感情を育てる。

実際に私もコロナ禍でエンタメの持つ力というものを十分に知ることができました。

正と負が表裏一体であるからこそ人は楽しいことをより楽しいと感じる、多分そういうことなんだと思います。

迷神

付喪神ノ巻で一番好きなお話。

早くに夫(伊通)を亡くした妻(藤子)が、その思いを断ち切れずに死した伊通を蘇らせてほしいと願うお話。

亡き夫は妻の願いに応え墓から蘇り、毎夜妻に会いに行くけれども……。

生者は決して死者とは交われない。

分かっていても思いの強さ故に願ってしまい、現実に直面して初めてそれが世界の「ことわり」であると思い知らされる。

陰陽師シリーズを読み始めてからというもの、結局一番強いのは「人が何かを思う心」だと感じるようになりました。

それまでの陰陽師に対するイメージは最強陰陽師の安倍晴明がその力を使って問題を次々と解決するお話かと思っていたのですが、全然違いましたね。

それどころか、彼らが使う術などというものはただの媒介にすぎず、それを完成させているのはいつでも善悪関係なく人の強い願い(呪)でした。

今回のお話も「もう一度夫に会いたい」という藤子の強い願いがあり、術を完成させるに至ってしまったということです。

その呪を解除するために晴明が施した術を完成させたのも藤子の強い後悔の念。

自分の身勝手な願いでこの世に呼び出し、辛い思いをさせてしまった伊通に対する申し訳なさが伊通に届いたことで術は解除され、伊通は土へと還った。

なんとも哀しくて、しかしお互いを愛していたからこその結末でした。

それから、術の解除を少し後押しした博雅の笛。

伊通には笛の才があり、博雅は言わずと知れた笛の名手。

博雅と笛を響かせあい、満たされたことも術解除の後押しとなったのでしょうね。

それにしても、このお話ほど、博雅が笛を吹くことに緊張した回はありません。

あの一文で緊張感を持たせられるのは本当に凄いなと思います。

そして、今回初登場だった晴明のライバル的(?)存在の蘆屋道満氏。

晴明や博雅も好きですが……私は彼が推しになりそうな予感がしています。

打臥の巫女

『この世をば 我が世とぞ思うふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』

この有名な歌をよんだ藤原道長……ではなく道長の父藤原兼家とその兄藤原兼通のお話。

いわゆるお家騒動というか。兄を差し置いて出世していく兼家を煩わしく思った兼通が道満と組み、兼家に呪をかけようと企む、といった内容です。

完全に兼家の一方通行な妬みかと思いきや、史実を少し調べたらお互いに確執があったみたいでね。

本編では兼家はその呪に怯えて終わっていたけれども、その後誰が仕組んだものか気づくのではないかな。

そのことを見越して道満は最後晴明に、兼家へのお詫びと困ったことがあれば自分を呼べ、との言付けを頼んだように思えた。

先ほどの「迷神」で道満が言っていた、「自分が動くのは呪(=人の心)によって」であれば、謀に気づいた兼家が兼通に復讐をしたいと思う気持ちは、道満を動かすこれ以上ない理由になりますしね。

さて、このお話の裏の主役は実はこのお家騒動ではなく、実は晴明と博雅、道満、そしてタイトルにもなっている打臥の巫女です。

(※打臥の巫女とは、第1巻に登場した八百比丘尼のこと。彼女は人魚の肉を食べ不老不死となっています)

人の世に生を受けながら、人とは少し違った能力を持ち生きていく人たちのこと。

私はまだ道満登場回は2回しか読んでいませんが、彼はもう一人の晴明の姿だと思っています。

力を持つが故に誰とも話が合わず、人の世を見限り、思いのまま生き、そして流れに身を任せ死んでいく。

おそらく晴明も、彼一人で生きていたならそういう道を辿っていたのかもしれません。

しかし晴明には、彼を人の世に留まらせている源博雅という人間がいる。

そして博雅にも、彼の世界を彩らせてくれる安倍晴明という人間がいる。

何よりお互いが自分のその気持ちを理解しているんですよね……。

共依存とは言いませんが、自分をこの世界につなぎ止めていてくれる人と笑っていられる。

それってとても大切でなににも変えられないものだよなあ、と思いを馳せたりしたのでした。

おわりに

今回は陰陽師シリーズの2巻「飛天ノ巻」、3巻「付喪神ノ巻」の紹介でした。

メインの内容の感想については思いの丈を書き切りましたが、陰陽師はそれ以外にも舞台背景や冒頭での晴明と博雅のやりとりなど魅力的なところがたくさんありますので、それはまた別の機会に紹介できればと思います。

3巻まで読みましたが、今18巻か19巻くらいでていますよね?

これからまだたくさんの晴明と博雅の活躍が見られるのが楽しみです。

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