あらすじ
関東最大のヤクザ組織「東鞘会」の若頭補佐である主人公。彼の本当の姿は警察から送り込まれた潜入捜査官だった。東鞘会会長が所持する機密ファイルを奪い取ると同時に組織を壊滅させるというミッションを主人公は果たすことができるのか。
読むきっかけ
「ヘルドッグス、映画化。監督:原田眞人×主演:岡田准一」
2021年12月にいつも通りTwitterをスクロールしていると流れてきたこのニュースと岡田君のキービジュアル。正直職場で叫ばなかった私を褒めたいと思うくらいでした。
潜入捜査もののストーリーと、この岡田君のビジュアルで映画を見に行くことは即決(根っからのV6オタクなので)したものの、ヤクザが絡んでくる以上、内容のえげつなさに耐えられるかどうか正直不安しかなく、普段はあまりしない「原作の履修」をしようと思ったのがきっかけです。
きっかけはかなり不純ですが、この本を機に今までしたいと思いつつ何かと理由をつけて避けてきた読書を始めるようになったので感謝しています。
ちなみに映画化発表の後すぐに読み始めて、映画を見終わった後再度読み直しました。
原作、映画双方のネタバレを含みますのでご注意ください!
続編という名の前日譚「煉獄の獅子たち」の感想はこちら↓
感想
最後まで揺れ続けた主人公
読み終えて最初の感想は「なんて重厚な人間ドラマなんだ」です。
ヤクザものってどうしても暴力や血なまぐささが多いという先入観がありましたが、それだけではなかった。暴力シーンや拷問シーンなど目をつぶりたくなるシーンも多かったですが、どちらかというとヤクザと警察という一見善悪がはっきりしている二つの組織の間で揺れ続ける主人公とその主人公を両側から手招きする登場人物たちが織り成すドラマ、という面が強かったような気がします。
主人公の兼高/出月は決して強い人間ではない。
3年にも及ぶ東鞘会への潜入捜査の中で兼高は彼らにも情を抱いてしまう。裏切り者には容赦をしない非情さも持ち合わせているけれども、身内に対する信頼や結束は固い。そして兼高はそこに居場所を見つけている。警察としての使命、死線をくぐり抜けた仲間との絆、裏切り、人殺し……。
いろいろなものが複雑に絡み合っているからこそ不安定さ、弱さが生まれて、ずっと善と悪の間で揺れているのだな、と思います。
マッサージサロンでのやりとりがなんだかんだで一番それを表していたのかなあ。
出月に戻れる、自分の素を出せる唯一の場所から、後半熊沢死後からは居心地の悪い場所になってしまうのがとてもわかりやすい。自分の立場の曖昧さ、警察としての出月とヤクザとしての兼高の境界線が曖昧になっている様が伝わってきて凄く苦しく感じられます。
ここでの苦悩があるからこそ、後半、土岐、室岡、十朱と対峙したときの兼高に感情を揺さぶられます。
全編を通して兼高は東鞘会と警察組織の間で揺れ続け、結果的に彼の最初からの信念である「悪いことをして平然と生きている奴が許せない」に帰結する物語だな、というのが私の所感です。
正義とは?悪とは?
ヤクザと警察なんて客観的に見たらどちらが正義でどちらが悪か一目瞭然なはずなのに、自分が当事者となると、そう簡単な話ではなくなるから不思議ですよね。
兼高の目線で物語が進んでいくため、実際どちらが善でどちらが悪なのか、読んでいる最中私もわからなくなりました。
東鞘会側の登場人物はみんな情に厚く、憎めない人たちばかりです。たまに三國みたいなスパイスを与えるキャラクターもいつつ、この人たちが最後壊滅してしまうことを考えると苦しくなります。
対して警察側は東鞘会を潰すためには手段を選ばない。自分の家族でさえ犠牲にする人もいれば、今の地位の保身にはしる人もいる。
本当にどっちがどっちなの?状態です。
そんな中、最初から悩み続けた主人公はラストで警察もヤクザも裏切るという選択をします。
兼高は阿内でもあるし、十朱でもある。そんな感じがしました。
東鞘会の上層部を潰し、警察が守りたかった情報もマスコミへリークする。結局、この立場にいるから正義だ悪だなんていうのは表面的なものでしかない。誰かにとっての善は誰かにとっての悪でもある。人が何か行動を起こすとき、そこには少なからず「私情」が挟まるものです。十朱が警察を裏切ったのも、阿内がどんな手段を使っても東鞘会を潰そうとしたのも、結局は私情でしたものね。
ここら辺は、「煉獄の獅子たち」を読めばもう少し解像度が上がるのですかね……?
次読む予定なので、楽しみにしています。
室岡という男
主人公のバディでもある室岡は原作でも映画でも欠かせない存在なのに、原作と映画の立ち位置は全然違っているのが面白いなあ、と思います。
原作は東鞘会ありき、映画では兼高ありきになっているのとか、本当に対照的ですものね。
映画のラストを見た後に、原作で兼高に「逃げろ」と言える室岡を見ると少しびっくりしてしまいます。
いや、どちらも好きですけどね。
原作における室岡は、曖昧になりつつあった兼高と出月の境界線を分ける役割もあったのではないかなあと思っています。
焼肉屋でのやりとりで最期に出月の存在をきっぱりと否定し、兼高を肯定した室岡の発言で兼高は答えを出すことができたのではないかとすら思っている自分がいます。
悪事に手を汚してきた「兼高」という存在を肯定することで、立場だけでは「善悪」というものを決めることはできないという結論にたどり着いたのではないか、と。
ちなみに、映画での室岡はすでに死んだ存在だった「出月」という男を蘇らせていたように思いましたね。
本当に真逆なのに、どちらも死ななくていいのに死んでしまうところは一緒なんだよなあ。
余談
書き切れないところをメモ程度に。
・全然メインキャラではないんだけど、ルカちゃんが好きで仕方ない。天童のキャストになってからの一週間のスピンオフを出してほしいくらい。ほかのキャストやママとのやりとりを見ていたい。
・映画があからさまだったので忘れてしまっていたけど、原作でも結構十朱は兼高を口説いて……いや、勧誘していたんだな。兼高の中に過去の自分を見ていたのかもしれない。これも前日譚でわかればいいなあ。
・映画のラスト、兼高が室岡の頭を撃ち抜くやつ、原作では阿内が十朱にしていたのね。
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