夢枕獏先生の陰陽師シリーズとしておそらく初の長編である生成り姫。
3巻、付喪神ノ巻に収録されていた「鉄輪」を深掘りしたお話になります。
徳子姫と藤原済時の確執や徳子姫と源博雅のひとときの逢瀬が描かれていたり、まさかの蘆屋道満が登場したりします。
生成り姫自体は5巻で、付喪神ノ巻との間に「鳳凰ノ巻」があるのですが、鉄輪を読んで無性にこちらを読み返したくなったので生成り姫の感想を先にお届けしたいと思います。
登場人物
安倍晴明 | 平安時代の陰陽師 |
源博雅 | 平安時代の武士、雅楽家 |
徳子姫 | 12年前、堀川橋で博雅が出会った姫 |
藤原斉時 | 12年前、徳子姫に思いを寄せていた。現在は別の女性のもとへ通っている |
変わりゆく全てのものに対して、何を思うのか
陰陽師を読んでいると、変わるもの・変わらないもののお話が多いように感じます。
そしてその描写に心を動かされてしまうのは、私たちが変化していく生き物だからでしょうか。その情景が心の奥に浮かび、共感してしまうのでしょう。
生成り姫は、気づかなかったけれどずっと変わらずに持ち続けていた源博雅の徳子姫への恋心のお話。
そして、変わっていく人の想いに翻弄されてしまった徳子姫のお話です。
陰陽師シリーズの2巻「飛天ノ巻」に収録されている鬼小町でも人の変化について書かれていました。
時が過ぎていくごとに若さや美しさは失われていくものだと。
生成り姫にはその先の描写があります。
年を重ねるということは、ただ衰えていくことではない。その人の生き様が身体に、佇まいに刻まれるということ。
その人を作り上げている人生経験の全て、博雅はそれを美しいと本能的に感じていたのでしょう。
序盤、晴明とお酒を飲みながら話していたとき、博雅は徳子姫に惹かれる理由も、そもそも好きかどうかさえぼんやりしていた感じでした。
それが終盤、徳子姫を看取るときにやっと気づく。
始めて堀川橋の上で出会った12年前より、皺や肉が増え、更に鬼になってしまった徳子を前にしても、その変化を愛おしいと思う博雅。
もう少し早く気づいてればなあ、と思わずにはいられないです。
読んでいて思ったのは、この博雅の「変化を全て愛おしく思うこと」って、すごく矛盾しているんですよね。
変わらないものはないと分かっていながら、堀川橋でのあの幸せな時間がずっと続くと思っている。
博雅に限らずそう思ってしまうこと、願ってしまうこと、私たちもありますよね。
「幸せな時間がいつまでも続いていく」
「ずっと変わらず、あの人は私を好きでいてくれる」
最高に都合が良くて、傲慢だなあと思ってしまいます。
でも、変わりゆくことを知っていながらそう願ってしまう人間の傲慢さを、とても可愛く、愛しく感じてしまうのも本当です。
徳子姫は最期に何を思い、何を見たのか
徳子姫が鬼になってしまったのは、どうしても藤原済時を諦められなかったから。
それでも、最期の時に望んだのは博雅の奏でる笛の音。
願ったのは、両親の形見である琵琶「飛天」をその腕に抱くこと。
想いを馳せたのは、12年前、堀川橋で博雅と過ごした少しの時間。
博雅の奏でる笛の音を初めて聴いた日や、橋の上でただ音を聞いていた日、堪らず自分も琵琶を奏でた日。
あの刹那の出来事を眠りにつく前に思い出したのではないかと思う。
徳子姫は博雅と初めて顔をあわせた日、「よい月」にみとれていました。
あの月が美しかったのは、きっとそこに博雅がいて、2人で奏でた音楽があったからなんだろうなあ。
めまぐるしく色々なものが変わってしまった徳子姫が最期に見たものは、変わらないでいてほしかったあの少しの日々なんだと思うととても切ない。
でも結果として、徳子姫があの幸せな時間を思い出して満たされたのは事実で、それが彼女を人間に戻す(晴明の言葉を借りるなら「救われた」)ほどの力を持っていたのだから、幸せだった時の記憶というのはとても強くて活力になるんだなあ。
それから、琵琶「飛天」についてなんですが。
綾子姫が徳子姫に投げ返した際についてしまった傷が琵琶に描かれた鳳凰の翼にまで達していた、という描写がありました。
琵琶に描かれていたのは鳳凰と天女。
もともとは徳子姫の両親の物なんですが、天女は徳子姫、鳳凰は藤原済時に思えて仕方がなかった。
徳子姫のもとから綾子姫のところに飛び立とうとする済時。
でもその翼は傷つけられ、完全に徳子姫から逃れることができない。
その傷をつけたのが綾子姫というのがなんとも皮肉に感じてしまいます。
相変わらず、晴明と博雅の掛け合いが素晴らしい
シリーズを読むたびにこの二人のやりとりにハマってしまいますね。
博雅の恋バナにめちゃくちゃ食いつく晴明、という図がとても面白くてですね……笑
それから、「人は誰でも鬼になり得る」ことについて。
「人が鬼になろうとするとき、他の誰にも止められない。止められるのはその人自身である」という話をしたうえで、博雅が鬼になったとしても味方でいると言った晴明。
どのお話か忘れてしまいましたが、以前逆の立場での掛け合いがありましたよね?
そのときは鬼じゃなくて、晴明が妖物だったとしても……みたいな会話だったと思うのですが。
こういう二人の関係性がとても好きです。
なんだろうなあ。少し特殊な能力を持って生まれたが故に、世間一般からは少しはみ出している二人。
それは端から見れば孤独かもしれないけど、逆に言えば、もし世界が晴明と博雅の二人だけになったとしてもこの人たちは何だかんだ満たされているのではないかとさえ思えます。
それから、呪を生業とする晴明は言葉にして伝えるのが得意なのに対して、博雅は言葉にするのが得意じゃないのが対になっていて素敵ですよね。
晴明は博雅に対してさらっと「よい漢だ」と言えてしまったり、凄い語彙力だ……と思うほど言葉を自由自在に使って物事について説明したりする。
博雅は言葉自体はとても直球なことが多いのだけど、「うまく言えないが」とか「どうと言われても……」とか言葉にしたい思いはたくさんあるはずなのに、うまく言語化できない。
でもどこか波長が合って、お互いを補いながら過ごしている。
そんな関係がいつ見ても眩しく感じるのです。
とてつもなく身勝手に感じた藤原済時という男
正直、徳子姫は本当に純粋な心の持ち主だと思っています。
だからこそ、追い詰められて最後は鬼になるしか方法がなかった。
これは、博雅との出会いと済時からの熱烈な申し出が重なったからこその悲劇とも言えます。
博雅と出会わなければ、済時からの申し出にすぐに応えたかもしれない。
済時からの申し出がなければ、もっと長い間、博雅と橋の上で音楽を奏でられたかもしれない。
そんな「もしも」を考えてしまうほど、色々な出来事が重なりすぎていました。
しかし、藤原済時さん……ほんっっっっとうにやりすぎです。ドン引きレベルです。
まず、陰陽師を使って呪をかけてまで徳子姫を追い詰めたのに、子供ができないからと綾子姫に心移りする。
そして晴明に助けを求めながら、ことの成り行きを説明するときさえ全てありのままに話そうとしない。
なにが「手引きしてくれる老女がいて会うことができた」なの。
なにが「弟を流行病で亡くしたらしい」なの。
(はっきりとした描写はないが、徳子姫に起こった一連の不幸は全て呪のせいだと思っています。)
全て自分で画策しておいて、それで鬼になってしまった徳子姫について「このようなことで人は鬼になってしまうのか」と平然と聞ける神経が分からない。
しかし、それに対する晴明の答えが「人は本心を全て見せるわけじゃない」なの、本当に頭が良い。
全て見抜いたうえで、この言葉を選んでいるのは流石としか言いようがない。
陰陽師から話しを聞いて実際に徳子姫に呪をかけたのは彼女の舎人ですが、彼は徳子姫を心配していたなら、言葉にして告げるべきだったし、すぐに呪を解除するべきだった。
本当に、全てが済時の身勝手に巻き込まれてしまったとさえ思ってしまうくらいに呆れしか出てきませんでした。
おわりに
最後、いろいろと荒ぶってしまいましたが、今回は陰陽師シリーズの長編「生成り姫」の紹介でした。
実は、三宅健さん主演で舞台化になったときに読んでいたのですが、やはり1~3巻を読んで晴明や博雅の肉付けを厚くしてからの方がお話に没頭できますね。
今回はお話しませんでしたが、実は蝉丸殿もとても好きなキャラクターですので、いつか語りたいですね。
陰陽師……たくさん語りたいことがありすぎて困ります笑
それでは、今回はここまでです。おしまい。
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